源頼朝墓  戻る

 名称  源頼朝墓  みなもとのよりとものはか
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 【案内板より】

 法華堂跡(ほっけどうあと)

 この平場は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の法華堂(墳墓堂)が立っていた跡です。
 治承4年(1180)平家追討のために挙兵した源頼朝は、同年鎌倉に入りました。元暦2年
(1185)に平家を、文治5年(1189)に奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は、鎌倉を拠点とする武家
による全国的な政権の基礎を築きました。以降、江戸時代が終わるまで、約700年間にわたり、
武家による政権が続くことになります。
 建久10年(1199)に頼朝が53歳で没すると、法華堂は幕府創始者の墳墓堂として、のちの時
代の武士たちからもあつい信仰を集めました。
 鎌倉幕府滅亡後も法華堂は存続しましたが、17世紀の初頭までには堂舎がなくなり、石造
りの墓塔が建てられました。現在の墓城は、安永8年(1779)に薩摩藩主島津重豪(しげひさ)によって整備
されたものです。
  平成24年3月

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 平成24年2月11日、墓の上部の相輪が破壊される。(後に修復された)

 建久9年(1198)12月27日、頼朝は落馬したことが原因で死去したとされる。
暗殺説もあるが死因は不明である。
 法号は「武皇嘯原大禅門」(ぶこうしょうげんだいぜんもん)。


石段は頼朝の享年と同じ53段。
左手は白旗神社。

源頼朝の墓